2015年2月2日月曜日

高知 高知市 坂本龍馬 ゆかりの地(高知市中心部)

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➛私にとって高知市は、小学3年生から約12年間、青春時代を含めて過ごした故郷です。今回、坂本龍馬、脱藩の道.com 龍馬回廊 坂本龍馬人物伝 などを見るうち、つい夢中になってしまいました。
改めて、坂本龍馬、脱藩の道.com 龍馬回廊 坂本龍馬人物伝 などを引用しつつ、私なりに書き写してみようと思います。
➛オススメ動画 坂本龍馬と岩崎弥太郎 1/4~  2/4  3/4  4/4

京都市 高尾山(高山寺 西明寺 神護寺)
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空から街並み拝見(Google Earth)

➛開成館跡
◆高知市九反田17(東九反田公園)
東九反田公園に「憲政之祖国」の大きな記念碑があります。この公園が「開成館跡」、「三傑会見の地」、「海南学校跡」、「憲政記念館」と呼ばれる所で、公園の南西隅に「開成館址 西郷木戸板垣三傑会合之地」の碑も建っています。

➛武市瑞山(半平太)道場跡
◆高知市桜井町1丁目2-32
この公園の北東隅に、下段に青石、上段に赤石を配した武市半平太邸跡の碑と説明板があります。
瑞山は嘉永2(1849)年、吹井村から妻冨子や祖母と共にここに転居しました。道場は安政2(1855)年の春、門口6間、奥行4間(11×7.3m)のものを建てています。碑は現在ここにありますが、もとはこの道路の北側に設置されていました。実際に邸と道場のあった場所はここから約30メートル東の道路北側付近と推定され、道場跡も邸跡も伝えるものは何もありません。瑞山の門人には中岡慎太郎、岡田以蔵、五十嵐文吉、久松喜代馬ら勤王運動家など120名にのぼり、龍馬もここによく出入りしていました。龍馬は角張ったアゴに特徴のある瑞山を「武市のアギ」とか「武市の窮屈」とか呼び、瑞山もまた龍馬を「龍馬のアザ」「坂本の法螺」などと呼び合った仲でした。

➛長岡謙吉邸跡
◆高知市南はりまや町2丁目2-10
長岡謙吉の誕生地には標柱など何もありませんが、かつては2階建ての部屋や土塀もあり、前庭には松の古木もあったといいます。
坂本龍馬とは遠縁にあたり、慶応2(1866)年頃に長崎で会い、翌年組織された海援隊に加入します。以来、龍馬と行動を共にし文書の作成などを積極的に手掛け、海援隊の文官的役割を果たしました。慶応3(1867)年6月の「船中八策」も龍馬らの意向をうけて謙吉がまとめ、10月の大政奉還建白書の草案、作成にも参加しました。海援隊刊行の『閑愁録』も彼の著書です。
河田小龍の家もすぐ隣であり、謙吉も幼い頃から出入りし、彼の知識は小龍の感化と影響を見逃せません。龍馬の死後も同志と共に塩飽諸島の鎮撫に努力し、開発と管理につとめ慶応4(1868)年4月には海援隊長にもなりました。明治5(1872)年6月病死、39歳でした。

➛河田小龍邸跡
◆高知市南はりまや町2丁目1-34
江戸・京都・長崎などを回り、画技、学識ともに優れた小龍は、藩命によりアメリカから帰国した漂流民の中浜万次郎の取り調べに当たり、『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』を著わしました。龍馬は河田小龍との出会いによって、小龍が中浜万次郎から聞き取った西洋体験やアメリカ事情を聞き触発されます。河田小龍との出会いは土佐において欠かせないものであり、その後の龍馬の行動にも大きな影響を与えたといわれています。小龍の門人であった近藤長次郎、長岡謙吉、新宮馬之助なども、のちに龍馬と同志となり活躍しました。

➛山田町番所跡地
◆高知市はりまや町3丁目17-21
山田橋の南詰東側が藩の獄舎跡地で、西側が番所跡です。当時、橋の南詰は広小路となっており山田町升形ともいわれました。廓中の升形にちなんだものでしょう。この橋は北街道、東街道からの城下への入り口であり番所と高札場がありました。
この獄舎は、文久2年には青蓮院宮の令旨を得て、隠居中の山内豊資のもとで藩政改革を行おうとし、山内容堂の怒りに触れた間崎滄浪、平井収二郎、弘瀬健太らが投獄され切腹処刑された所であり、また慶応元(1865)年5月11日には、岡田以蔵、村田忠三郎、久松喜代馬、岡本次郎ら勤王党の獄で捕えられた志士たちもここで斬首され、多くの勤王の人々の血をみた獄舎の跡です。

➛山田町獄舎跡地

➛龍馬伝幕末志士社中
◆JR高知駅前
龍馬伝幕末志士社中が、JR高知駅前にある土佐旅の玄関口「こうち旅広場」内のパビリオンとしてオープンしました。NHK大河ドラマ「龍馬伝」の撮影で使用した龍馬の生家セットが再現されているほか、幕末ムードたっぷりの展示も多数、武市半平太や中岡慎太郎、ジョン万次郎らを紹介するコーナーもあります。

➛間崎滄浪邸跡
◆高知市北本町1丁目5-22
間崎滄浪は、文久元(1861)年土佐勤王党に加盟し、江戸に出てからは多くの志士との交流もありました。龍馬とは文久2(1862) 年8月26日江戸で逢い会飲しながら時局を論じたこともあります。また12月5日には江戸の越前藩邸で近藤長次郎も交えて松平春嶽に謁見し、大坂近海の海防策も具申したともいいます。後に平井収二郎、弘瀬健太らと共に、青蓮院宮の令旨を受けて山内豊資をたて藩政改革を目指しますが、逆に容堂の怒りに触れて山田町の牢につながれ文久3(1863)年6月8日自刃して果てました。
少年時代から奇童と称されるほど学高く、16歳で江戸に出、帰国して19歳で江ノ口に私塾を開き、門人には吉村虎太郎、中岡慎太郎、島本仲道らもいたようです。吉田東洋にその才が認められ一時浦役人に登用されたこともありました。

➛立志社跡碑

➛吉田東洋暗殺之地
◆高知市追手筋2丁目1
吉田東洋は山内容堂に抜擢され藩の仕置役となる。江戸で山内家の親戚の者を接待中に相手の無礼に我慢できず、その頭を叩いたため一時免職となるが、復帰後はその手腕を振るった。常に公武合体路線を推進し土佐勤王党の主張を書生論として一蹴もした。このため文久2(1862)年4月8日、土佐勤王党の那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵の3人によって斬られた。城中二の丸で藩主豊範に「日本外史」「信長記」本能寺の変を講義し、最終講義だったため酒肴にあずかり、亥の刻(午後10時頃)雨の中の帰り道だったという。

➛高知城

➛板垣退助像

➛武市瑞山(半平太)殉節地
◆高知市帯屋町2丁目5-18
武市瑞山(半平太)の碑に、文政十二年九月長岡郡吹井村に生まれる 天資英偉明秀人格一世に高し幕末多難際に土佐勤王党を率い国事に奔走す後吉田東洋暗殺に連座し慶応元年閏五月十一日この地に割腹す時に年三十有七」と、高知市文化財保護協議会の撰文です。
東洋暗殺が勤王党の仕業とみなされ、文久3(1863)年9月瑞山らは捕えられました。南会所の獄舎につながれ、吉田東洋配下の後藤象二郎の厳しい追求を受けます。瑞山の弟田内衛吉の服毒自殺、島村衛吉の拷問死がその追求の厳しさを伝えるもので、土佐勤王党の最終処分は瑞山の切腹をはじめ、獄死2名、斬首3名、禁固7名の処置でした。岡田以蔵の獄門の極刑もこの時です。

➛板垣退助誕生地
◆高知市上町1丁目7-34
誕生地の碑は昭和27年5月、当時の首相吉田茂の揮毫のものを、昭和43年「明治百年記念行事」の一環として高い台座を含め整備したものです。平成14年、その前に説明板とモニュメントが作られました。
誕生地の標識は明治の末年、田中光顕書の木柱が最初で、昭和3年と昭和20年に建碑されて現在のものに至っているといいます。
坂本家は明和7(1770)年新規郷士に取り立てられ、ここに独立分家したもので、龍馬誕生の頃は、この付近から南側水道町までの広い家地であったと伝えられています。
郷士名簿録によると領知高は161石8斗4升で、龍馬の留学を可能にしたのもこの財力でした。
龍馬誕生の11月15日には、ここを中心に町内会の人々が中心となって盛大な誕生祭が行われています。

➛後藤象二郎誕生地
◆高知市与力町5-18
後藤象二郎は1歳違いの板垣退助とは竹馬の友であり、叔父吉田東洋に抜擢され容堂の信任も厚かった。
慶応元(1865)年の土佐勤王党の獄での処断で、大監察の彼の厳酷な審理は周辺から怖れられもしましたた。慶応2(1866)年には開成館仕法開業にこぎつけ、航海遠路の策をすすめ、長崎から上海にまで足をのばしその見識を変えます。
坂本龍馬とは慶応3(1867)年長崎で逢い、時局を論じてからは龍馬の策も受け入れ、東洋暗殺、勤王党の断罪という旧怨を越えて行動を共にするようになりました。龍馬と船中八策をまとめ、大政奉還建白では容堂の許可もとりつけ、将軍慶喜への進言にも成功しました。

➛山内神社
➛山内容堂公邸跡
◆高知市鷹匠町2丁目4
山内容堂は土佐藩15代藩主です。嘉永の黒船来航頃まではその才幹を発揮できませんでしたが、以後雄藩の大名とし、幕末には四賢公の一人と称せられる代表的藩主にまでなりました。吉田東洋を起用して海防充実、藩権力強化に成功し、将軍継嗣では一橋慶喜を推して朝廷に働きかけもし、時局の変転の中では公武合体を強力にすすめ、土佐勤王党を弾圧し流動する事態に対処もしました。
将軍慶喜への大政奉還の進言は有名で、その実現の原動力ともなります。酒と美女を好み、書も愛し多くの詩文も残している大名です。

➛坂本龍馬誕生地
◆高知市上町1丁目上町病院前
高知城下本丁筋1丁目,現在の高知市上町1丁目上町病院前に,誕生地の碑は建っています。父坂本八平直足,母幸の次男として,1835年天保6年11月15日,この地で誕生した坂本龍馬は,1867年11月15日の奇しくも自らの誕生日に,京都近江屋で凶刃に倒れるまでのわずか33年の生涯にあって,類まれなる行動力と,勝海舟や松平春嶽など素晴らしい出会いを重ねることで,薩長同盟の締結や大政奉還など数々の功績を残し今も根強い人気を誇っています。龍馬の誕生日であり命日でもある11月15日には,毎年ここで龍馬誕生祭が行われています。

➛龍馬の生まれたまち記念館

➛日根野道場跡
◆高知市上町2丁目13
日根野道場跡地の周辺は鏡川河畔で、かつては竹薮でしたが、住民たちの力で堤防を構築したといいます。この辺りに小栗流の和術を主とした日根野弁治吉善の道場がありました。龍馬はここで14歳から19歳まで修業し、剣法や居合、槍、棒、薙刀、騎射、水泳、水馬などの武芸を身につけ、嘉永6(1853)年3月には「小栗流和兵法事目録」一巻も伝授されています。龍馬19歳の時です。
今、道場跡を決定づけるものは何もなく、周辺の屋敷は全て道より石垣を築き上げ高い所に建っていて、頑丈な石垣や、土用竹の生垣は道場ありし頃の光景を彷彿させるものがあります。

➛河田小龍塾跡
◆高知市上町3丁目15-4
河田小龍は安政の大地震で住んでいた家を失い一時は城北に移りましたが、紺屋町の門田兼五郎の好意で築屋敷に住むようになったらしく、龍馬が小龍を訪ねたのもこの家でしょう。安政元(1854)年の秋の頃で龍馬誕生の地からは5分ほどの距離です。江戸で黒船襲来を経験して帰国後のことでもあり、小龍から聞く世界情勢や大艦のことなど大いに啓発されたことでしょう。近藤長次郎や長岡謙吉、新宮馬之助ら小龍の門下生との交遊もこれ以後のことです。
『藤陰略話』では、龍馬が「あなたは人をつくりなさい。私は船を作りましょう」と言って小龍と別れた、と記しています。小龍と龍馬との交流、そして龍馬の決意がうかがえる有名な話です。

➛近藤長次郎邸跡
◆高知市上町2丁目8-20
道の東側の電柱のもとに近藤長次郎邸跡の碑があります。
近藤長次郎は天保9(1838)年3月、水道町3丁目の餅菓子・饅頭屋に生まれました。このため饅頭屋長次郎の名もあります。龍馬とは生家も近く少年時代から親交があったのでしょう。17歳で河田小龍の門下となり、文久2(1862)年には、勝海舟のもとに入門しました。文久3(1863)年に結婚するが、新婚生活の借家も龍馬の世話であったといいます。長州藩の外国船砲撃事件の調停など常に龍馬や勝と行動を共にし、勝が失脚して後も亀山社中周旋役として、長州のために英商人グラバーから小銃を買い付け、ユニオン号購入にも尽力し成功します。
しかしその際、長州より得た報賞金で、独断でイギリス留学を秘密裡に計画したことが露見し、その行為は亀山社中の社規に反するものであったため、慶応2(1866)年1月14日切腹、29歳でした。その時、京都にいた龍馬は「術数有余而至誠不足、上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」と『手帳摘要』に残し、「おれが居ったら殺しはせぬのじゃった」とお龍には語り、死を惜しんだといいます。
碑は道ばたに車道を背にし歩道から碑文字が見える建て方で、邸跡を語るものは何もないが、邸は碑より東側にあり、碑は邸跡を眺めて建つ格好です。

➛喫茶「さいたにや」

➛才谷屋跡
◆高知市上町3丁目6-1
才谷屋は坂本家の本家で、寛文6(1666)年に長岡郡才谷村からこの地に出て質屋を始め、後に酒屋や諸品売買業へと商いを拡大していきました。八兵衛守之が最初で、文禄から享保にかけて驚異的に発展し、播磨屋や櫃屋とならび称され、城下屈指の豪商にまで成長します。
才谷屋はもともと大浜姓を名のっていましたが、明和4(1767)年、初代の太郎五郎の墓を建てた時には坂本姓を刻んでおり、この墓は直益が建てたとされるもので、坂本姓は直益の頃と思われるが、改姓の理由や時期を確証するものはありません。三代目直益の長男八平直海が、本丁筋一丁目南側に分家したのが明和7(1770)年3月で、その翌年5月新規郷士となり坂本家が始まります。龍馬は直海の曾孫です。
現在、才谷屋の跡を明確にすることはできませんが寛政4(1792)年頃の「上町分町家名附牒」によれば、現在の喫茶「さいたにや」の手前から南にかけて広く、南の水路も隔て更に南側までもあったのではと推定されています。当時の 才谷屋の看板とされるものは、高知市民図書館に所蔵されています。

➛池内蔵太邸跡(この辺り)
◆高知市西町21-1
池内蔵太は龍馬とは早くからの友であり、文久3(1863)年5月に脱藩し、長州の外国船襲撃の際には遊撃隊参謀として参戦しています。天誅組の挙兵には洋銃隊長として、また禁門の変では忠勇隊に属して戦い、長州藩の内戦にも正義党に属して戦った歴戦の勇士です。
慶応元(1865)年5月、下関で龍馬と面会して以来、亀山社中にも加入し行動を共にするが、翌年の閏5月、薩摩の後援で入手したワイルウェフ号の乗組士官として乗船し、長崎から鹿児島に向かう途中、嵐に遇い長崎県五島列島塩屋崎で遭難し船と運命を共にしました。26歳。郷里西町のこの地に、若き妻を残しての死であり、龍馬が内蔵太の死を痛んだことは、乙女や内蔵太の家族に宛てた手紙から察することができます。

➛坂本家墓地
◆高知市山手町70史跡公園

面影なくす墓地記録

➛才谷屋の墓地
◆高知市 三の丸霊園
小高坂山には龍馬たちの坂本家が分家した元の豪商「才谷屋」の墓所があります。現在、才谷屋新墓所は小高坂山のうち、西の部分で「三の丸」という山の三の丸霊園とのことです。
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