2013年4月14日日曜日
福島 会津 大河ドラマ「八重の桜」の史跡を追う
➛Google Map
➛先日(2013/04/14)、NHK大河ドラマ「八重の桜」の地元、会津のホームページ「八重と会津博」に魅せられ、その足跡を追おうとしてます。丁度、日本の五街道などに興味を抱き、江戸時代の旅の行程を調べている最中であり、又、以前に旅行で歩いた会津の道のりとは角度を変えての中味に惹かれました。
➛新島 八重
➛福島 会津市(大河ドラマ、八重の桜)
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➛Wikiloc ツアー一覧(後順)
➛空から街並み拝見(Google Earth)
➛新 Google Map 福島 会津若松市 若松城(鶴ヶ城)
➛鶴ヶ城(会津若松城)の南西に位置する新島八重生誕地の碑です。
➛新島八重生誕地の碑
➛かつてこの場所にあった藩校・日新館の天文台の跡です。
➛日新館天文台跡
➛茶室麟閣は、千利休の子少庵ゆかりの茶室で、庭園の四季を眺めながらお茶が楽しめます。
➛茶室麟閣
➛鶴ヶ城(会津若松城)は、至徳元(1384)年、葦名直盛が、現在の場所に東黒川館を建てたのが始まりといわれています。文禄2(1593)年、蒲生氏郷が7層黒塗りと想像される天守を建て、鶴ヶ城と名付けました。
➛鶴ヶ城(会津若松城)
➛以前(2002/10/27)、鶴ヶ城を訪ねた際、目にした風景です。周囲の景観とマッチしたスナップで大切に保存しています。
➛鶴ヶ城にて
➛1868年9月22日、ついに会津藩は降伏、開城となり、午後には、本丸に篭城者が全員集められ一夜を過ごします。その夜、真夜中12時頃、月が煌々と輝く中、八重は三之丸雑物蔵の白壁に「明日の夜は いずこの誰か 眺むらん なれしお城に 残す月影」と刻んだと言われています。
➛八重が落城の際に詠んだ雑物蔵
➛会津藩には「鬼」と呼ばれる戦いぶりを見せた藩士がいました。それが、別選組の隊長であった佐川官兵衛です。
➛佐川官兵衛顕彰碑
➛鶴ヶ城三の丸の入口には、会津藩公用方・秋月悌次郎の詩碑が建っています。悌次郎は日新館の頃から非凡の才を見せており、江戸の昌平黌で書生寮の舎長を務めたこともあるほどの秀才でした。
➛秋月悌次郎詩碑
➛大河ドラマ館では、「傷ついても、前を向く強い志」を、八重のふるさと会津で感じていただくため、八重の不屈の精神が育まれた背景や体験型ゾーンの充実によりドラマの世界観をよりリアルに感じていただける仕掛けをしています。
➛大河ドラマ館
➛会津葵本店は、会津藩御用の茶問屋の流れをくむ老舗の和菓子屋で、白い大きな暖簾が目立つ蔵造りの店です。
➛会津葵本店
➛会津藩の筆頭家老であった西郷頼母の屋敷は、鶴ヶ城北出丸入口のすぐ傍にありました。西郷家は保科家から分家した一族で、会津藩で代々家老を務める家柄です。
➛西郷頼母邸跡
➛戊辰戦争後、会津藩は賊軍として長い間憂き目を見ることになります。そんな身分でありながら、明治という世の中に名を遺した一族がいます。それが、会津藩家老を務めた山川家で、中でも長男の山川大蔵、その弟・健次郎、妹の捨松は、非常に優秀な人物として時代に名を刻んでいます。
➛山川兄妹生誕の地
➛酒造歴史館では、現在も実際に酒造りの行われている宮泉銘醸一番蔵を一般公開しています。
➛酒造歴史館
➛福島 会津若松 鶴ヶ城(若松城)と野口英世青春通りなど周辺
野口英世青春通り・レオ氏郷南蛮館・渋川問屋・七日町駅・SL会津磐梯号
➛会津若松駅 白虎隊士の像
➛妙国寺は、白虎隊士最初の埋葬の地です。会津藩の降伏後、会津藩士の遺体は占領軍が埋葬を禁じたため、自刃した白虎隊士の屍も放置されたが村の肝煎りが密かに妙国寺に運んだといわれます。
➛妙国寺
➛旧滝沢本陣は、参勤交代や領内巡視などの際の殿様の休息所です。戊辰戦争の際に本営となり、白虎隊もここで命をうけて戸ノ口原戦場へと出陣していきました。
➛旧滝沢本陣
➛白虎隊記念館には、会津藩主松平容保公、萱野権兵衛、西郷頼母、秋月悌次郎、中野竹子ら娘子軍、新島(山本)八重子らの会津藩関係の史料や、新撰組の近藤勇、島田魁、西軍総督岩倉具定、板垣退助らの有名諸将などの史料がありあす。
➛白虎隊記念館
➛飯盛山は、白虎隊自刃の地としても知られています。
➛飯盛山
➛大龍寺は、八重の先祖が眠る山本家の菩提寺で、戊辰戦争殉難殉節供養の碑もあります。
➛大龍寺
➛天寧寺本堂の裏手にある参道を登っていくと、新選組局長である近藤勇の墓があります。この墓は新選組副長であった土方歳三が会津戦争の際に、ここに埋葬していったと言われています。
➛天寧寺
➛近藤勇の墓
➛会津武家屋敷は、会津藩家老であった西郷頼母邸を中心に、武家の暮らしを感じ取れる屋敷を復元したミュージアムパークです。復元した屋敷のほかに、重要文化財の旧中畑陣屋や藩米精米所などを備え、当時の会津武士たちの生活ぶりを知ることができます。
➛会津武家屋敷
➛松平家墓地は、会津藩二代藩主・保科正経から、代々の会津藩主とその妻子を葬った墓所です。明暦3(1657)年、初代藩主・保科正之の次男・正頼が死去したときに、院内山と呼ばれるこの山を墓所に指定しました。そのため「院内御廟」とも呼ばれています。八重の父や兄が仕えていた会津藩九代藩主・松平容保もここに眠っています。
➛松平家墓地
➛宝積寺の裏手には、八重や白虎隊が実弾の訓練をしたと言われている的跡があります。的は鶴ヶ城のもととなった東黒川館を建てた葦名直盛の母・金峯尊公大禅定尼の墓を改修した土壇で、高さが1.5メートル、幅が3メートルあります。未だに訓練時に使用したとみられる弾が見つかることもあるそうです。
➛宝積寺
➛河井継之助埋骨地は、長岡藩家老・河井継之助の遺骨を仮埋葬したと言われている場所です。河井継之助は長岡藩の軍制や財政の改革に取り組んだ家老でしたが、戊辰戦争の際、激戦の末に只見の塩沢村で亡くなりました。
➛河井継之助埋骨地
➛善龍寺は、会津の藩祖である保科家の菩提寺で、。「竜宮門」と呼ばれる山門は、会津では珍しいものです。多くの会津藩士が眠るところでもあり、戊辰戦争の際、最後まで容保に諫言し続けた国家老・西郷頼母の墓や、一斉自刃した頼母の家族親戚21人が眠る墓もあります。
➛善龍寺
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