➛Google Map
➛中山道(なかせんどう)は、江戸時代の五街道の一つで、本州中部の内陸側を経由する路線です。「中仙道」とも表記するほか、「木曾街道」や「木曽路」の異称も有しました。
江戸の日本橋から草津宿まで、 草津宿で東海道に合流します。江戸から草津までは129里あり、67箇所の宿場が置かれました。現在の都府県では、東京都・埼玉県・群馬県・長野県・岐阜県・滋賀県にあたります。
➛中山道六十九次
➛歌川広重筆。
明六ツ(夜明け頃)に日本橋を渡る大名行列と、その手前には魚河岸で仕入れた魚を売りに行く行商の魚屋の姿などが描かれています。現在の築地市場の前身である魚河岸は、かつて日本橋のたもとにありました。
➛中山道 日本橋
➛現在の日本橋
➛中山道六十九次の内(日本橋~深谷宿)間
joy555 trails
➛Wikiloc ツアー一覧(後順)
➛空から街並み拝見(Google Earth)
➛渓斎英泉筆。
画面の左端、道の中央に「是從板橋(これより いたばし)」と記されているであろう傍示杭が建っています。中央より若干左手に見える姿のよい旅人は武家の夫婦で、1人の使用人が後に続きます。
➛中山道 板橋宿
➛板橋宿本陣跡
➛今は、スーパーマーケットライフですが、その向いにある石神医院、ここはかって、江戸時代の蘭学者高野長英をかくまった医師、水村玄洞の旧宅だそうです。
➛渓斎英泉 画。
蕨宿の近隣にあって一帯の水運を担う戸田の渡しが描かれている。人馬の別無く舟に乗り合い、白鷺が舞う戸田川を往く、天保の頃の人々ののどかな様子です。
➛中山道 蕨宿
➛蕨本陣跡
蕨本陣跡に位置する歴史民俗資料館は江戸から昭和にかけての昔の暮らしが展示されています。
➛渓斎英泉 画。
絵師が選んだのは蕨宿から浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米を食べさせる立場茶屋です。右手の丘陵で鳥が一啼きでもしたか、歩きながら揃って視線をやる2人の旅人(武士とその使用人)がいて、進む先には焼き米売りの茶屋が待っています。
➛中山道 浦和宿
➛浦和宿碑
浦和宿は上・中・下の三町で成り立っており、旅籠15軒とあまり大きな宿場ではなく、上町の二日・十七日、 仲町の七日・二十二日、下町の十二日・二十七日に行われる二・七市場で賑わった宿場でした。
➛渓斎英泉 画。
水ぬるみ、田畑は地色を覗かせ、桜が花をつける早春の郷。左手には、青面金剛像の彫られた庚申塔と近在の農民の暮らしが描かれています。
➛中山道 大宮宿
➛渓斎英泉 画。
描かれたのは、実りの季節を迎えた神域と農民の働きぶり、そして旅路です。上尾宿と江戸方に一つ手前の宿場である大宮宿との間に位置する加茂神社と加茂宮村が舞台に選ばれ、秋祭りが近いであろう社には何本もの加茂大明神の奉納幟がはためいています。
➛中山道 上尾宿
➛渓斎英泉 画。
簡素な家の庭先で麦の穂をこぐ農婦に、旅人が氷川天満神社(加納天神)への道を尋ねています。
➛中山道 桶川宿
➛渓斎英泉 画。
人家が途絶えた寂しい道は鴻巣宿近辺ではなく、さらに先、間の宿がある吹上辺りの風景です。旅路の目印となる榎が疎らに植えられた昿原(こうげん)の縄手を旅の商人や虚無僧が往き交い、背景では雪を頂く富士の山が雄大な姿を現しています。
➛中山道 鴻巣宿
➛天保14年(1843年)の中山道宿村大概帳によれば、熊谷宿の宿内家数は1,715軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒で宿内人口は3,263人でした。
➛中山道 熊谷宿
➛渓斎英泉 画。
深谷宿は中山道で最大規模の宿場で、本陣1(飯島家)、脇本陣4、旅籠80余。商人が多く、また飯盛女も多く、遊郭もあり、江戸を出立して2晩目の宿を求める人で大いに栄えました。
➛中山道 深谷宿
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